澳門
人工都市だなと思う。歌舞伎町よりぎらつく眠れない都市。
隣の部屋の韓国人と鉢合わせになって、そっくりな顔に驚く。
人工都市の売り物に相応しい、作り物のわたしたち
ダッチワイフはなにも感じない
インプット
頭に入ってくる分量の方が遥かに多く、アウトしきれない。
1年前より安定して2キロ増えて今はおかげさまで40キロをウロウロです。でも怖くない。なぜならうち500グラム弱がシリコンの重さだから。
そう思うと増えた体重など大したことじゃないように思えるけど、昔と違って最近は蓄えが無いからなんでもダイレクトに身体にくるのだ。それを最初に感じたのは飲酒時だけど、つい最近普通の内科で処方箋をもらった時、あなたの分量は子供用でいいですねと言われて改めて思った。
あと、去年までと違って、ベースは増えているのにも関わらずある一定の体重を切ってしまうと突然身体が動かなくなる。動かなくなる寸前に自分の身体を見て気付ければ防げることだけれど(大抵胸のシリコンと腕の骨が奇妙に浮き出てくる)、そういう状況に陥る時はだいたい忙しかったり陶酔していたり病んでいたりして自分をまともに見られない時だから、睡眠時間が異常に増えだしてから初めて気づく。
次に病院で相談すべきこと→このこと。体重が減ると動けなくなる話。
以下これをふまえて久しぶりの夢オチ
薬の飲み忘れやらお薬遊びやらの時やたら離脱が酷くて、最近の寝汗や体調不良はもしかしてこのせいか!と気づいた決定的瞬間だった
毒性のあるものないもの共に身体に留めておけるような脂肪がないというわけだ
水溶性ならそもそも必要以上に身体にとどまれないし。ただ体感の話なので科学的に?医療的に?あっているのかは不明。
でも今更太ろうとしても胃がうまいこと受け付けないし、むりやり食べても結局お腹壊したりとか、翌日以降無意識に帳尻合わせしようとしたり、で、きちんと増えない。
生理前とか42kgくらいに戻ることもあって、全く飯食えなくなる前の体重がそのくらいだったはずなので、もしかしてなおったんじゃね、とか思うことがしばしばあるけど、実際ただの水分やらだし、仮にその頃と同じくらいに軽快したのだとしても、その頃ですら「全く食べない」わけじゃなかった、というだけで全然吐いてたわ今思えば。と。
久しぶりに指吐きしたり、根気よく漕いでみたり、でもその度に私って病気だわーと思っては悲しくなる。
今年も夏が来るぜー。細くなってもなっても楽しいと思わなかった夏。寧ろ不健康な手足を露出しなければならないのがいやだったそんな夏。辛うじて言うとすれば42きろの頃がいちばん過不足なく楽しめた(14歳も20歳も)。そんな夏。いつか普通に戻りたい。いつになるかぜんぜんわからないけど普通に、夏らしく、お祭りとかBBQとかして過ごす、そういうのやってみたい。
質量と愛(論文用メモ)
ヴェイユからの考察
*質量と愛の関係
拒食すること(=自己実存の放棄)によって、自己が実存していた場所に他者の存在を置き換える(自己のうちに他人を認識する)
→減少した自分の質量=他人への愛、
つまり究極の受容であり欠けるところのない同意。認識。
自己という器の容量からはみ出さない為にできること→自己をなるべく消し去り、他者に譲る自己贈与
自分が必然性の中に包括されていることを認識する
→必然性の中にいる故に、自己支配の及ばない部分(体調不良や疲労で身体が動かないジレンマ)が必ずある
→自己を支配したいという欲求が仇なるものだという結論
→自分が必然性に従属していることを知って、無力であると認めること(自我の破壊)により、徒労を減らす
⇨他人から破壊されることよりも徒労が少ない分、苦しみが少ない?
整形ソープ嬢、時々ラウンジ嬢
いつか、いろんな顔を捨てて、一人の自分にならなければいけない。
内定が決まって晴れて来年から社会人
それまでにお金が欲しい、それだけ
惨め
服を着ていない自分の身体が惨めで、仕事が嫌になる
太い脚を露出するみっともなさも惨めだったが、枯れ木のような腕を剥き出しにするのもまた惨めで、結局夏という季節が好きになれない
服に合わせた身体、わたしのものでない身体、わたしの身体、服のための身体
纏う布がなければ価値のないただの枯れ木
最初に冷たくしたのは自分のくせに、見放されると悲しい事実
肉ではなく私の魂を愛して欲しい